親鸞は弟子一人も持たず
「弟子一人も持たず」とは?
これは、親鸞聖人がある時こんなことをおっしゃったと、弟子が書き残した歎異抄のお言葉です。
その歎異抄の第6章に、
「親鸞は弟子一人も持たず候」
という有名な言葉があります。
自分の名前を打ち出されていますので、間違いなく親鸞聖人のお言葉です。
ところが、親鸞聖人には相当のお弟子があったのは歴史上の事実です。
『親鸞聖人門侶交名牒』や他の史料など調べると合わせて6~70名はお弟子があったようです。
それなのに、
「親鸞は弟子一人も持たず」
と言われたと聞いたら、
悪くとれば、
「みえみえのウソなのではないか?」とか、
善意に解釈すれば、
「謙遜されたのかな」
などではないでしょうか。
ところがどちらも違うのです。
弟子とは?
まず弟子とは何か考えて見ましょう。
職人の世界には、師匠と弟子があります。
他にも、芸術や、相撲などの世界にもあります。
特に仏教では、最初から師匠と弟子の関係はハッキリしていました。
現在でも厳しく残っています。
弟子は、師匠から教えを聞いて、師匠の指示に従って仏道を求め、行動します。
「師匠はそう言われるけど、私はどうも納得できない…」
となれば、もう弟子ではありません。
仏教は特にこれが絶対的なものでした。
親鸞聖人の深い自覚
ところが親鸞聖人は、6~70人ものお弟子があったのに、
「弟子一人も持たない」
と言われたのは、どう思っておられたのでしょうか。
弟子とは、師匠の教えを聞き、師匠の指示にしたがって求める者ですから、
「私の教えというものはないのだ。
そして私の指示通りに動いている者も一人もいない。
だから、親鸞の弟子という者は、一人もいないのだ」
ということです。
親鸞聖人の、深い自覚から、その6~70人の人たちを自分の弟子とは思われなかったのです。
というよりも、毛頭思えなかったのです。
普通なら、思えないような人でも、あれは自分の弟子だと言いたいですし、そう思いたいものです。
それが逆なのです。
親鸞聖人のお言葉の理由
その理由は、歎異抄の続きにこうあります。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、 弟子にても候わめ、……(歎異抄6章)
なぜなら、この親鸞の力で、生きる目的を知りたいと思い、仏教を求め、絶対の幸福に救われたのならば、弟子とも言えるだろう……
弟子なら自分が弟子に教え、自分が指示をして、求めさせなければなりません。
ところが、親鸞聖人は、
「そんなことをした覚えはない。
師匠としてのつとめを全然していない」
ということです。
ではどなたのお言葉?
ではその6~70人の人に教え、指示をして求めるようになり、絶対の幸福になったのは、誰の力なのでしょうか。
歎異抄の続きにはこうあります。
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候(歎異抄6章)
「ひとえに」とは100%
「弥陀」とは阿弥陀仏
「御もよおし」とはお力
「念仏」とは、仏教を聞き、生きる目的を完成することを
「念仏」という言葉に含めて言われています。
親鸞聖人は
「これは全く阿弥陀仏のお力なんだ」
阿弥陀仏のおはからいで、あの6~70人の人たちは、教えを聞き、真実の仏法を求めて救われた人は、救われたんだ。
これらはみな阿弥陀仏のお働きであったんだと、親鸞聖人はおっしゃっているのです。
ですから、親鸞聖人は、
「共に真実の仏法を聞かせていただく私たちは、御同朋、御同行、喜ばしき友であり、兄弟なのだ。
あなたもはやくお聞き下され」
と呼びかけておられるのです。
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