生きる意味、親鸞聖人のお答え
あなたは、何の為に生きていますか?
私たちは何のために生まれて来たのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても自殺してはいけないのか。
この「生きる意味」の答えを明らかにされたのが親鸞聖人です。
親鸞聖人は、その答えをこのように教えられています。
難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
(教行信証総序)
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(高僧和讃)
大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず。
(教行信証行巻)
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、
超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
(教行信証総序)
苦しみの人生を明るく渡す大きな船
まず、親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の冒頭に、生きる意味の答えを「難度海を度する大船」と明らかに教えられています。
親鸞聖人が90年のご生涯、教えられたことはこれ1つです。
『教行信証』は、このお言葉におさまります。
まず「難度海」とは、渡ることが非常に難しい海ということで、親鸞聖人は、人生を海にたとえられています。
海には、小さい波もあれば、大きい波もあります。
人生にやってくる苦しみ悩みの波です。
生活に困っている人もあります。
嫁と姑の関係に悩んでいる人もあります。
その間に板挟みになって苦しんでいる息子もあります。
定年退職したら好きなことしようと思ってお金をためていたのに、やっと定年退職すると、糖尿病ですよと言われます。
あれもダメ、これもダメと言われて、好きなものが全然食べられずに苦しんでいる人もあります。
地震や津波で、一生涯働いて築きあげたものが、崩れ去ってしまう人もあります。
徳川家康でさえ、
「人の一生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」
「重荷」とは苦しみのことです。
あれだけのことをやっても、苦しみはおろせなかったと言っています。
「遠き道を行くがごとし」というのは、ゴールのない道を走り続けなければならなかったということです。
死ぬまで苦しみ続けなればならないのが人生なのです。
その苦しみ悩みの絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大きな船がある、といわれているのが、「難度海を度する大船」です。
この船に乗ることこそが、本当の生きる意味だと教えられています。
ところが私たちは、この大きな船が見えないので、「これが私の大船だ」と思って、丸太や板きれにすがっています。
苦しみの海は果てしがない
丸太や板きれというのは、趣味や生きがいのことです。
具体的には、お金や財産、地位、名誉、仕事とか、子育てなどです。
これらをあてにして、心の支えにして、生きる希望にして生きています。
このような丸太にすがって、やれやれと思っても、これらは浮いているものですから、くるっとひっくり返って、塩水を飲んで苦しみます。
どんなに信じても、すべてのものは続かない、諸行無常の世の中ですから、必ず裏切られます。
一つの丸太に裏切られると、これは丸太が小さかったからだと思って、もっと大きな丸太に向かって泳いで行きます。
そして、より大きな丸太にすがってやれやれと思いますが、それも一時的なことで、すぐにまた裏切られて塩水飲んで苦しみます。
こんなことを繰り返しているうちに、どこまで行っても、心からの安心も満足もなく、最後は土左衛門になって死んでしまうのです。
親鸞聖人はそのことをこのように教えられています。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
「生死の苦海」というのは、難度海と同じで、苦しみの人生のことです。
生死の苦海「ほとりなし」というのは、果てしがない、限りがないということです。
どこまで行っても、何をやっても、苦しみの海は、果てしなく広がっています。
これで完成した、満足した、ということがないのです。
「久しく沈める」とは、今生、生まれてからのことではありません。
生まれ変わり、死に変わり、果てしない遠い過去からということです。
「弥陀弘誓のふね」とは、「難度海を度する大船」と同じです。
「弥陀弘誓」とは、阿弥陀如来の本願のことです。
これを「難思の弘誓」とも言われ、船にたとえられて「難思の弘誓は難度の海を度する大船」とも言われています。
ところが、私たちは、丸太や板きれは見えるのですが、この船は見えないのです。
船長が、「おーいここに船があるぞ、乗れよー」と叫んでいるのが聞こえません。
これを親鸞聖人は、「無眼人(むげんにん)」「無耳人(むににん)」と言われています。
まことを見る目もなければ、まことを聞く耳もないのが私たちなのです。
そんな私たちを助ける大きな船をつくれる仏は阿弥陀仏しかおられないですから、弥陀弘誓の船「のみぞ」と言われています。
「のせてかならずわたしける」と言われているのは、私たちに「ここまで泳いで来て乗れ」と言われても乗れませんから、この船のほうから近づいて乗せてくだされます。
そして、この世、生きている時に、この船に乗せて頂いた人は、死ねば弥陀の浄土へ連れていってくださることを「わたしける」と言われています。
「わたしける」とは、この世から極楽浄土まで連れて行ってくだされるということです。
必ず乗せて、浄土まで渡してくだされるのです。
この大船に乗ることが、私たちが生まれて来た目的であり、本当の生きる意味なのです。
では、この船に乗ったらどうなるのでしょうか?
生きる意味を果たしたらどうなる?
弥陀弘誓の船に乗ったらどうなるのかということについて、親鸞聖人は、このように教えられています。
大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず。
「大悲の願船」とは、「弥陀弘誓の船」と同じで、苦しみの海を渡す大きな船のことです。
「大悲の願」とは、阿弥陀如来の本願のことで、阿弥陀仏の大慈悲の本願によってできた大きな船ということです。
この船に乗ったら分かるのですか?と聞く人がありますが、乗ってもハッキリしなければ、救われたことになりません。
苦しみの海からこの船にのったら、当然ハッキリします。
では、その船に乗ったらどうなるのでしょうか。
「光明の広海に浮かんだ」と言われています。
明るい広い海に浮かんだということです。
それまでは暗い心だったのが、光明輝く明るい心になった。
それまで苦しみの海に沈んでいたのが、広くて楽しい海に浮かんだ、ということです。
「至徳の風静かに」の「至徳」というのは、この上ない徳ということで、決して変わることのない幸せのことです。
人間に生まれてよかったという心が、風が吹いているように常にある、ということです。
「衆禍の波転ず」の「衆」というのは色々のということです。
「禍」というのは難度海の苦難や困難や災難です。
この船に乗ったら、それらがなくなるのではないのです。
自分がまいたタネならば、因果応報で、やってきます。
ところがこの波は、船に乗ってしまえば、問題にならなくなります。
この船が大きいからです。
これを煩悩即菩提ともいいます。
苦しみが喜びに転じてしまうということです。
ではどうすれば、この船に乗って、本当の生きる意味を果たせるのでしょうか?
どうすれば生きる意味を果たせる?
親鸞聖人はそれについてこう教えられています。
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、
超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、阿弥陀如来の本願のことです。
親鸞聖人は29歳で、この難度海を度する大船に乗せられて、阿弥陀如来の本願の通り、この世は変わらない幸福になり、死ねば浄土へ生まれることがハッキリして、
「まことだった、本当だった、阿弥陀如来の本願に嘘はなかった」
と言われています。
それが、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」です。
では、どうすればこの船に乗れるのかといいますと、次に
「聞思して遅慮することなかれ」
といわれています。
「聞思」とは、聴聞のことです。
蓮如上人は、「仏法は聴聞に極まる」といわれています。
「聴」もきくなら「聞」もきく。
聞く一つで、この大船に乗せて頂けるのです。
だから親鸞聖人は、「遅慮することなかれ」
もたもたするな、早く聞いてくれよ、どうか一人でも多くの人に聞いてもらいたい、と言われているのです。
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