親鸞聖人の非僧非俗

非僧非俗(ひそうひぞく)とは?

親鸞聖人は、『非僧非俗』を宣言しておられます。
非僧非俗(ひそうひぞく)とは、「僧に非ず俗に非ず」ということです。

親鸞聖人が
私は非僧非俗だ」 とおっしゃったのは、印度中国日本を通して、画期的なお言葉です。

非僧とは?

まず、「僧に非ず」とは、「私は僧ではありません」ということです。

僧侶」と聞くと、みんな、葬式をし、お経を読んで、お金をもらうものと思っています。

ところが親鸞聖人は、
私は僧ではありません
と言われています。
ですから葬式法事はいたしません。
墓番もいたしません。
坊主ではないのだから。
葬式法事、墓番は、坊主のやることだ。
死人の後始末もいたしません。
生きた人間しか相手にしない。

親鸞聖人が『非僧』と言われるのは、そういう自覚があるのです。

死んだ者の相手ばかりをしているのは坊主です。
親鸞聖人はそういうものを徹底的に排斥せられました。

 

非俗とは?

ではあなたは在家の方ですか?
と親鸞聖人に聞きますと、
「そうじゃない」
俗に非ず
と言われています。

」とは、在家俗人のことです。
金や物を求めて、生活するだけで、一生暮らす。
あれが俗人だ。
この親鸞は、生きた人間に、生きた仏法の教えを説くのだから、俗人でもない。
私の様に真実の教えを説いている俗人がどこにいるか。
だから私は「非僧非俗」である。

では「生活の糧はどのようにしてえられたんですか
と尋ねると、
「ただひたすらに、法施をするのだ」

法施」とは、法を施すことです。

お釈迦様の説かれた仏教に、何が説かれているのかを施すということこと。

真実の仏教には、私たち何の為に人間に生まれてきたのか。
生きているのか、生きる意味は何なのか。
すべての人が本当の幸せになれる、たった一本の道が教えられています。

その仏教を相手にわかるように施す。
それが、法施です。

親鸞聖人は、法施だけで 90才まで生きられました。

さらにそのご家族も、親鸞聖人のせられた法施によって生きられたのです。
そんな人この世にあるでしょうか。

ないですよね。
法施は俗人にはできませんから。
世間一般の人は、俗な任務につき、それによって得られた報酬で生きます。

それに対して親鸞聖人は、
「ひたすら相手の仏縁を念じて真実の仏教を説き続ける」
法施による財施によって、生きてらおれるから、
「俗に非ず」

僧に非ず、俗に非ず
『これが本当の仏教によって生きている人の姿なのだ』
親鸞聖人はまずそれを私たちに訴えたられかったのだと思います。

親鸞聖人は、教えも天下一品と言われますが、一生涯貫かれたこの、「非僧非俗」の自覚も、ほかにはありません。

親鸞聖人だけの、声高らかなる宣言なのです。

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