親鸞聖人の田植え歌

親鸞聖人が40歳から60歳頃まで関東におられたときの「田植え歌」というものが伝えられています。
親鸞聖人は、なぜ田植え歌を歌われたのでしょうか?
一体どんなことを歌われたのでしょうか?

田植え歌

親鸞聖人の田植え歌は、こちらです。

五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に
兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして
雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり
一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし
念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し
往生の秋になりぬれば
実りを見るこそうれしけれ

親鸞聖人は、なぜこのような歌を作られたのでしょうか?

田植え歌の目的

田植え歌は、親鸞聖人が仏教を伝えるために造られた歌です。
農繁期になると、農家の方は、忙しくて仏教を聞きに来られなくなります。
現在でもゴールデンウィークの頃になると、田植えが始まります。
当時は、農業が主力の産業だったので、ほとんどの人が仏教を聞きに来ることができなくなりました。
そこで、親鸞聖人が農家の方の中に入られて、一緒に田植えをされて何とかお釈迦さまが一生涯説き明かされた阿弥陀仏の本願を伝えようと歌われた歌なのです。

縁がなければ伝えることはできません。
向こうから来られなければ、こちらから出かけていく。
そして話をする機会を作ります。
しかし、田植えをするだけでは、人間関係はできるかもしれませんが、それで終わりです。
目的は、仏法を伝えるためですから、田植えに関係する歌を作られて、その中に仏教の言葉を織り込まれたのです。

一言でも仏教の言葉を聞いて欲しい。
まずは意味が分からなくてもいいから覚えて欲しい。
そんなお気持ちから、親鸞聖人は、田植え歌を作られたのです。

田植え歌の意味

農家の方のされるご苦労

まず、「五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に」とあります。
苗代とは、モミダネをまくために幅1m位、土をずっと盛り上げた所です。
現在は、苗を買ってきて田植えをしますが、当時は自分でモミダネを苗代で発芽させていたのです。

「しろをして」というのは、田植えをするために、田んぼの土を柔らかくならすことです。

「草をとり」とは、せっかく田植えをしても、雑草が生えていては、そちらに養分が行ってしまいます。 そこで、稲を育てる為に邪魔な草を取る必要があります。

「たねおろし」とは、もみだねを蒔くということです。

「水流し」とは、稲が育つ為には、水が必要です。
用水路から、田んぼに水を供給し続けます。

これは農家の方がされる稲作です。

それに対して、「五劫思惟」とか「兆載永劫」は、阿弥陀仏がされたということです。

五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に

まず「五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に」の「五劫思惟」とは、阿弥陀仏が五劫の間思惟されたということです。 一劫は、4億3200万年ですので、その5倍です。
気の遠くなるような長い期間、苦しみ悩むすべての人を助けてやりたい。
それにはどうすればよいか、考えられたのです。
阿弥陀仏は、考え抜かれて苗代を作られたということです。

兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして

次に「兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして」とあります。
その阿弥陀仏がつくられた苗代にしろをされるというのは、兆載永劫という五劫よりも長い間です。
稲の苗ができたら、田植えができる田んぼにしなければなりません。
それは苗代よりずっと面積が広いので、「五劫」よりずっと長い、「兆載永劫」というものすごく長い間かかって、たねをまいても芽が出やすいように田んぼの土をわらかくされたということです。

雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり

次に「雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり」とあります。
阿弥陀仏が、しろをした田んぼに、雑行自力という名前の草が生えていたので、むしり取って下された、ということです。

これは、田んぼにたとえられていますが、毎年作っている田んぼには木の根っこや大きな石はありません。
本当は私たちの心は、盤根錯節(ばんこんさくせつ)した山のようなところで、色々な木の根っこが入り組んでいます。
くわで耕そうとしても、くわが根っこにはさまれ、動かすことができません。
大きな石が、ごろごろしています。
その盤根錯節した心の畑を開墾して、仏のたねを植えようとされているのです。
私たちは、因果の道理もわからず、悪いことがあると、他人を怨んでいます。
木の根っこが重なり合っているような状態です。
その木の根っこを掘り起こして、だんだん田んぼや畑らしくなってきます。
すると石が出てきます。
はじめはこれ位なら取り除けると思って掘り進んでいくと、ものすごく大きな石が地面の中に隠れています。
因果の道理が全然信じられません。

それを因果の道理を教えて、導いて行かれるのに兆載永劫、阿弥陀仏はかかられた、ということです。

一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし

そして次に「一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし」とあります。
阿弥陀仏が「一念帰命」というたねを、しろをした田んぼにまいて下されたということです。

一念帰命のたねというのは、仏だねのことで、「名号」のことです。
名号」とは南無阿弥陀仏のことです。
この一念帰命の名号が下ろせなければ、往生は出てきません。

阿弥陀仏が五劫・兆載永劫のご苦労をされて、たねをまける状態になって、名号を一念で与えてくだされる、ということです。

一念とは、名号を頂く何億分の一秒よりも短い時間のことです。
名号を頂いた瞬間、人間に生まれてよかったという生命の歓喜が起きて、絶対に変わらない幸福の身になります。

念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し

そうすると次は「念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し」です。
農家の方は、せっかくおろしたたねが枯れたら困るから毎日毎日、念々に水絶やしません。
続けて、田んぼへ水をはられているのです。
名号の仏だねを頂くと、救われた喜びから、お礼を言わずにおれなくなります。
「念々」というのは、「念仏」のことなのです。
阿弥陀仏に対する救われたお礼の言葉は「南無阿弥陀仏」です。
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」とお礼の念仏を称えずにおれなくなります。
それを水を流すのにたとえられています。
それも、阿弥陀仏がされたことです。

往生の秋になりぬれば

次に「往生の秋になりぬれば」とあります。
往生」とは、死んで阿弥陀仏の極楽浄土へいって、弥陀同体(みだどうたい)の幸せに生まれるということです。

名号を頂いて、お礼の念仏を称えている人が、死ねば極楽浄土へ往って、弥陀同体のさとりを開きますから、「往生の秋」がくるのです。

実りを見るこそうれしけれ

それが阿弥陀仏のご苦労なされた目的ですから「実りを見るこそうれしけれ」と言われています。
農家の方がされる目的は、おいしいお米とる為ですから「みのり」が目的です。
阿弥陀仏は私たちの「往生」が目的ですから、阿弥陀仏がお喜びになります。
往生させて頂いた私たちも、もちろん喜びますが、一番喜ぶのは、阿弥陀仏です。
私が往生したことによって、阿弥陀仏の大変なご苦労が報われるのですから、喜ばれるのは、阿弥陀仏です。
それで「実りを見るこそうれしけれ」と言われています。

これらはみんな、私たちを救う為に阿弥陀仏がなされている色々のご苦労です。

親鸞聖人はこのような歌を造られて、皆さんに仏法伝えにゆかれたということです。
この親鸞聖人が教えられた中で一番大事なのは、一念帰命です。
名号を頂いた一念に、絶対の幸福になり、死ねば極楽へ往生できるのですから、私たちも一念帰命のたねをおろして頂かなければなりません。
では、どうすれば、一念帰命のたねをおろして頂けるのか、それについては以下のメール講座でご覧ください。

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